おじいちゃまがおっしゃった、「行者(ぎょうじゃ)」とゆーコトバを。
ウィキペディアで参照してみますと。
================<以下引用>================
行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意であり、本来は仏教に限らず、広く古代インド宗教全般に見られ、特に断食行や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名であり、釈迦も悟りを開く前に苦行をしていた事で知られる。中国・日本に於いては、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道の開祖である役小角は「役行者」と呼ばれている。
出典: 「行者」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
2007年10月10日 (水) 21:28 UTC
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%8C%E8%80%85
================<引用おわり>================
ニッポンの「行者」って、「山岳修行を行う者(山伏)」のコトなんですね。
てこたあアレですよ。
「ちょっと修行すれば、ひとかどの行者になれる」なんて言われちったアタイは。
日輪差す険しいお山のテップェンで。
ぶおー。
て法螺貝吹いちゃう山伏ちっくな可能性を秘めてるってぇコトになりますが。
昭和43年生まれのアタイは、「神仏より科学を尊ぶのが常識的な態度です」なんてコトをおせえられてオトナになった世代です。
煩悩即菩提を体感した後であっても。
神仏とゆーモノを、心理学、哲学、民俗学などの枠組みで捉えよおとするので。
まことの意味で信仰的な環境に身を置いている自分の姿を、想像できねいのでつ。
ぶっちゃけ「行者」とゆー響きに、ちょっぴり魅力を感じてしまったのですけれど。
山岳修行とゆーと、関連して、地下鉄サリン事件なんかも想起されますでしょ?
超自然的なモノを希求するあまり、社会とゆー共同体から離脱しちゃったら、「悟り」もクソもあったもんぢゃないしねぇ。
←思いがけない可能性の発見におつむがついていけないようす。
そんなアタイの心中を、おじいちゃまは、すっかりお見通しでございまして。
こっちがなーんにも言ってねいのに。
「アンタは修行より結婚がしたいんだろ?」 ←図星っ。
てなコトもおっしゃるのでつ。
そこですかさず、
「へいっ」とお答えした現実的な俺。
お山のテップェンで法螺貝吹くよりゃ、ヨメに行くコトの方が先決だ。
修験道においては、「悟り」が、どおいったプロセスを経て体感されるモノなのかについても、お話を伺いたかったのですが。
部外者には語れない、修験道の修法に直結したコトではないかと思われ、伺うコトができませんでした。
アタイの夢の中に登場した、密教的シンボルにつきましては。
「行者としての素質があるから、そーゆー夢を見るんだよ」
的な解釈を与えて下さいまして。
「えっ、このシンボルには、そんな解釈があるのでつか?」
ってなカンジで、タイヘンおべんきょうになりました。
(珍しいお話を伺ったので、ここの部分は後日、記事にするかもしれません。)
心理学や哲学に論拠を求めるアタイに、おじいちゃまは、宗教家としての観点から解釈を与えて下さるのですから。
お話を聞いているアタイには、「ずれ」の感覚(註)が生じてまいります。
宗教家は、心理療法家と同様に、ヒトのこころを扱いますので。
おじいちゃまは、そこで生じた「ずれ」をうまく使って、あたまでっかちなアタイの思考の枠組みを揺るがし。
より高い視座でモノをかんがえさせる、「心的な変化」を促す術(すべ)にも長けておいでだなァ、と感じました。
山岳修行を行いつつ、地に足の着いた営み(農業)をなさっているだけあって。
アタイのよおに、キョーミ本位で「修行」を捉えているニンゲンを、安易に修験の道へと誘うよおなマネもなさらず。
ホンモノのシャーマンは、こおゆうモノなのでつね。
つづく……かもしれない。
註 : 心理療法の場における「ずれ」の感覚について、わかりやすく説明されている
川嵜克哲センセイの著作をご紹介しておきます。
『天才柳沢教授の癒セラピィ』
MATERIAL by YAMA☆SOZAIYA HONPO