甥のサトルが、一歳のベビイだった頃。
椅子にお座りした拍子に、おちんちんを、おしりの下に敷いちゃったことがあります。
ウッ
て、いきんで固まっちゃったサトルのまあるい顔に、見る見る間に血の色がのぼり。
プチトマトと見まがうばかりになるや。
サトルのクチビルから、それまで発せられたことのない、何とも喩えがたい泣き声が漏れ出しました。
その体験は―――。
ちいちゃな突起物を引っ張ったり伸ばしたりしながら、ちょびっとずつアイデンティティを確立する作業をはぢめたばかりの、男の子にとって。
いろーんな意味をもった、衝撃的な体験だったのでしょう。
口をへの字に結び直したサトルは、サッとおしりを浮かせて、椅子に座り直し。
おめめからいっぱいお水を滲ませながら、しばし沈思黙考した後。
怒ったような顔つきで、離乳食を食べはぢめました。
サトルの挙動から事態を察した義兄のマスオさん(甥の父親)が、チョロリと説明してくれましたので。
なぢぇサトルがいきんで泣いたのか、ようやく理解したのでございますが。
ベビイのサトルがはぢめて体験したそれは、傍らで見ていたアタイ(当時35歳)にも、目からウロコな衝撃をもたらしました。
「男の子って、こんな体験をしちゃうんだ!」
「オトナの男の子も、お座りする時は下敷きにならないよお、気をつけてるのォ?」
「それってやっぱり、体験を経て学習されることなのォ?」
て、ひとしきりかんがえましたもの。
持って生まれたカラダのつくりが違いますから、想像してみる他ナイのですけれど。
身体上の特性によって行動を制限されたり、注意を払わねばならない瞬間が、男性にもあるらしいことに、はぢめて気付いちゃったワケですよ。
←マウンド上でケンケンしてる野球選手の姿はテレビで見たことある。
でもおしりの下敷きでアイタタな姿を目撃するのははぢめて。
ユングやプラトンは、ニンゲンの潜在的な両性具有性について考察しておりますし。
ねんねしてみる夢の中で、セックスチェンジが行われることもございますでしょう?
男性が女性に、女性が男性になり。
「身体的な性別とは異なる性を持った人格」として、夢の過程のあれこれを体験するのって、そう珍しいことではありません。
こころもカラダも両性具有になる夢。
セクスレス型のヒューマノイドに変身する夢を見ちゃったりするケースもあります。
そーゆー夢を見ますと。
「カラダの作りは違っていても、異なる性もチャーンと備わってるんだァ」
てことが、なんとなァくわかってまいりますし。
日々の生活の中で、「これだから男は!」「これだから女は!」的なモノを見聞したりいたしますと。
なーんかこう、ちゃみチい気分になってまいります。
こころの奥底ぢゃあ、誰もケンカなんか望んでないってのによゥ。
←おつむのネジが緩んできたのでちょっと休憩。
日々あほうが加速する一方の行かず後家。島村ジョーより速いかも。
一歳のサトルがはぢめて体験した、痛みや情動は。
どれだけアタイが頑張ってみても、そっくりおんなぢに体験することはできません。
何たって、ついちゃってるものが、別のカタチをしていますから。
でもベビイ達は、ちょっと違いますよね。
集団の中で、誰かひとりが泣き出したら。
その誰かの「かなしいキモチ」は、周りに居るベビイ達にもじわじわ伝わって。
いつの間にやら、その場に居る全員が、ぴいぴい泣きはぢめたりします。
意識と無意識が分化していないベビイのうちは、「根源に近いこころ」のまま、外界と向き合っていますので。
「私は私。あなたはあなた」
なんて具合に、自分と他者を区別していません。
大きくなっていくうちに、いつの間にやら忘れちゃうことなのですけれど。
ごくちいちゃなベビイのうちは、「他者」てゆー認識そのものがナイんですよね。
「みんな私」
てゆー、茫漠たる感覚で生きてますから。
誰かが感じたこころの痛みを、そっくり自分の痛みとして感じちゃいますし。
お花も、いきものも、ぬいぐるみも、床の上のスリッパも。
「みんな私。おんなぢ私」
な感覚で眺め、それらのものに接していきます。
日々すくすく成長するベビイ達は、やがて。
親との分離不安や人見知りを経験しながら、「知っている人」と「知らない人」を区別しはぢめ。
自分と他者を区別することも覚え。
2歳ぐらいになると、「自分が自分であること」を認知いたします。
鏡に写った反転像をまじまじと眺めながら。
げっ、これが俺? まぢ?
なんてことを、かんがえはぢめるよおになるワケですネ。
そおやって、ちょびっとずつ「コドモの自我」を確立した後は。
思春期を経て、「オトナの自我」を確立していくワケでございますが。
オトナになっちゃいますと、たいていのバヤイ。
「私は私。あなたはあなた」
の線引きを強固にすることで、状況から自分を守ろうといたしますでしょう?
「ヤヴァイことに巻き込まれたら大変だぢょ!」
「もっと線引きがハッキリされねえと動けねえ!」
てな具合に、どんどん用心深くなってまいりますし。
線引きが強固になってゆくうちに生じた、孤立無援感や閉塞感に悩まされちゃう人もでてきます。
「私」を区別し、「私」を守ってくれるハズの境界が。
他でもない「私」を苦しめ、身動きをとれなくしちゃっているのでちゅ。
オトナの「私」も、ベビイの「私」も、みんな、「おんなぢ私」なのに。
えーん、えーん、痛いよォォォ。
←油断すると「かそくそーち」がスイッチONされて「音速のあほう」になる。
良い子のみんなも疲れた時はムリしないで休憩するのでつよ。
境界の向こう側にあるものは、時として。
自分とは全く異質なもの―――たいそう恐ろしいものに感じられるバヤイもあるワケですけれど。
異質にして未知なるものは、えてして、抗しがたい魅力をもっていますよね。
キャー、怖いィィィ!
て言いながら。
顔を覆ったおてての指の隙間から、そーっと向こう側を覗いてみたり。
けっ、あんなもんたいしたことねえよ!
とか言いながら。
向こう側にある何かをいつも気にしちゃってる、そんな自分にイライラしたり。
そんな矛盾が紡ぎ出す葛藤のはざまで、ささやかなシアワセを見い出して泣いたり笑ったりするのが、我々ニンゲンのユニークなところ。
異なる性への畏怖や焦燥なんてのも、そーゆーパラドキシカルな性質のものなんでございましょうよ。
おちんちんがアイタタなことになっちゃってたサトルも、すっかり大きくなりまして。
こんなものや
こんなものを注いだグラス片手に、人生の浮沈を語り。
←俺、サトル。違いのワカル男と呼んでくれ。
何やら発心しちゃったとみえ、
「お坊さんになりたいっ」なんてことも申しております。
先頃も、菩提寺の住職に向かって。
弟子にしてくださいっ!
て言い出しちゃうんですから、またまた目からウロコでございますよ。
保育園児にたのもーされちゃった菩提寺の住職、にっこりお笑いになるや。
大学を卒業してからネ♪
てゆー、あざやかなご返答で弟子入りをスルーなさいましたが。
求道を志すサトル6歳。
境界の向こう側にある何かに、強い憧れを抱きはぢめているよおでございます。
KUMA ICON by YAMA☆SOZAIYA HONPO
PANDA CLIP ART by PINKUMACHAN NO HENTEKO SOZAI