えー、昨年12月1日どようびの話ですがね。
ねんねするつもりで、右半身を下にしておフトンへ横たわった途端。
右胸のあたりがあったかくなり、おつむのテップェンがふわーっとしたと思ったら。
苦も無く、時間も無く、呼吸も無く、「私」すらも無い感覚―――。
大いなる暗黒がもたらす「何も無い安らぎ」が、ただ、あるだけ。
―――そんな変性意識状態へ没入しちゃったんでございます。
まるでエアポケットへがくんて落ち込んだみたいに、トートツかつ劇的に。
ことの発端は、その日の朝。
ねんねから覚めたばかりのMYおつむが、
神チャマは無形で、空(くう)のよおなモノらしいゾ。
てゆーかんがえで、いっぱいになってやがったことに起因します。
無形? 空? それいったい、どんな感じィ?
て思っちゃった桃太郎、ぢゃねえ桃花39歳。
その日は一日、おでかけしてる時も、お風呂を済ませたフタゴのき(省略)の裏側をフキフキしてゲキレンジャーぱんつを穿かせる時も、スキあらば、
「おつむの上に在るカタチのない何かがお空(そら)いっぱいに広がりながらどんどん上昇してゆく感じ」で空(くう)をイメージし続けまして。
ねんねの支度を整えた後、
とにかく、こころが空の状態に留まっていれば良いのでしゅね。
とかんがえながらねんねした途端。
じわーときて、ふわーとなって、がくん、て落ちちゃったのです。
そおなることがあらかぢめ、プログラミングされてたみたいに。
アタイは瞑想をやらないので、「これこれこーゆー段階の意識状態ですっ」てなことは、論じたりできねいですし。
その時の感じをうまく説明することもできねいのですけれど、おそらくは、高い段階の瞑想やってるのとおんなぢ変性意識状態へ没入しちゃったのだろおと思います。
(瞑想をやらない理由は、瞑想によって自己を追求する行為を否定しているからではありまちぇんよ。はぢめたら最後、あっとゆー間に深みへ到達して、それっきり目が覚めなくなっちゃうタイプのよおな気がするからです。)
でも、がくんて落ちたその時は。
変性意識で感じられる至福感が、39年間の生涯で体験した如何なるモノにも勝る、心地の良いモノだったので。
ほよ? この未体験ゾーンな心地良さはなァにィ?
あ、そおか。苦が無くなっちゃったんだ。
苦が無いだけで、こんなに安らいぢゃうものなのォ?
なんだかもお、なーんにも要らないよおな気がしてきたよ。
おうちのことも仕事のことも結婚のことも、もお、どおでもいいや。
目先の快も浮世の楽も、みーんなみんな要らないよ。
もお、ゴハンを食べるのも鬱陶しくなってきちゃったァ。
おや? 時間の感覚も、呼吸してる感覚も、「私」の感覚も無くなってきたよ。
何も無い、なーんにも無いよォォォ。
この「何も無い安らぎ」は、胎内でぷかーんと浮いてる胎児の安らぎだよゥ。
わーい、赤ちゃんになっちゃってるンだァァァ。
てゆー気分になり。
ところで今このままの状態で死んだら、すんげえ好い死に顔してるんぢゃね?
この心地良さの中で、一足飛びに極楽往生してぇー。
なんてことを思い、にんまりした瞬間。
無意識の思考が変性意識へザザッて割り込んできたので、はっと我に返りました。
時間にすれば、ほんの十数秒間ほどの出来事だったと思います。
←MY無意識が変性意識状態を解除してくれなかったら、
まぢでそのまま目が覚めなくなっちゃってたかもぅ。
桃花39歳(もおすぐ40歳だよ)、危機一髪!
我に返ってからすぐ、変性意識状態で体感した「何も無い安らぎ」の性質を反芻し、あるモノを思い浮かべました。
誰もがその無意識に潜めている子宮回帰の願望、タナトス(死の衝動)、それから、再生のイメージです。
ヒトって、解決困難な事態に直面すると、「死」を意識しちゃうことがあるでしょう?
ほいでもって、実際の「死」がどんなものか想像した時。
「今ここで思考している私も無くなっちゃうんだ」ってゆー未知なる感覚への懼れが、そのヒトを「死」から遠ざけ、「生」に踏み止まらせるワケでつよね。
ところが不思議なもんで。
ほんの十数秒間、「私も無い、何も無い」てゆー死と再生の儀礼を通過しただけで、「死」への懼れも無くなってしまい。
死ぬまでの短い時間、与えられた「生」を、いっしょおけんめえ生きることが、大切なのでしゅね。
とゆー新しい認識が芽生えました。
ニンゲンであることのシアワセは、「今生きて在ること」に尽きるので。
徒に「死」に焦がれるのではなく、各々が与えられた「生」を全うする行為こそが、「天命を尽くす」ってことなんぢゃないのかナ、と。
なーんか辻説教師みたいなこと言っちゃってますがぁ。
こころが発達してくると、そーゆーことが通り一遍なタテマエではなく、ホンネとして感得されるよおでございますよ。
外見的特徴や学歴、職業、家柄、財産の有無なんかぢゃあ、他人様の本質と価値は量れない、てゆーことなんかもネ。
←そして自分が自分で思ってるほど「おりこうさん」ではなく、
「あほう」なんだってことも、ばっちりホンネでわかってくるのだった。
不思議なことが起こるもんだなァと思い、変性意識状態に没入した時のこころの動きをデータベースに記録したっきり、失念していたのですが。
この記事を編集してる途中、瞑想の実際について確認しよおと思い、チョイとぐぐってみましたらば。
落ちてた間に何が起こっていたのかがはぢめて解り、蒼くなってしまいました。
素人ゆえ、どの段階へ達したかを正確に判別することはできませんが、禅定の色界第四禅から無色界へ向け、一気にぶっちぎった模様。
参考 : 仏教的に正しい禅定の作り方 - 日本テーラワーダ仏教協会
以前、氏原寛センセイのご本をチョロリと拝読した折。
================<以下引用>================
よく知らないのですが、禅の悟りにも段階があるらしい。一たん悟ったらそれで卒業というのではないようです。ユングのいいたがっているのも、それに近いのかもしれません。
たしかにある段階で、明らかに以前より懐の広くなった感じがある。しかし、それは意識がある種の無意識を克服したのではなく、無意識との間に一種のバランスを保つ術を身につけたのだ、ということなのでしょう。しかし、そのことがさらに無意識の活性化を促すことがあるでしょうし、するとあらためてバランスを保つための新しい支点が必要になる。個性化とはそのような、きりのないプロセスなのではないかと思っています。だから、意識的自我の把握することのできぬ心の深みに、すべてがそこに発しすべてがそこを目ざす、いわばバランスの中心点としての自己がある、とするユングの仮説は卓見と思います。
出典 『ユングを読む』 氏原寛著 ミネルヴァ書房発行
1999年2月15日
================<引用おわり>================
桃花による注釈 : 引用文中の「自己」は、元型の「自己(Selbst)」を指しています。
てゆー箇所の概要を記憶に留めてましたので、禅の悟りには段階があるらしいことだけ、うっすら理解していたのですけれど。
禅定とおんなぢ心的作用が自然発生するなんて、思ってもみませんでしたよ。
ニンゲンのこころって、ホントに不思議ですね。
てこたぁアレですよ、朝目ェ覚ました時にMYおつむを占拠していた、
神チャマは無形で、空(くう)のよおなモノらしいゾ。
てゆーかんがえは、禅定へ入るためのキーワードだったのですね。
意識と無意識を含めたこころの中心点・自己(Selbst)が、外部投影される対象の範囲を拡張する目的で、覚醒時の意識へキーワードを伝達し。
それとは気づかぬおたんさいぼうな意識が、いっしょおけんめえ空をイメージし続けたため、いきなり色界第四禅へ没入しちゃった、てぇことですわ。
当日はクルマの運転もしましたから、ヘタすると、生命的危険が及ぶ可能性もあったワケなのですけれど。
日中ずーっと意識を保ち続け、ねんねした途端にがくんて落ちるあたり、自分で自分の生命を守ってる様子がありありとうかがえます。
ニンゲンのこころって、ホントに不思議ですね。あはははははは。
←良い子は面白半分でマネしちゃいけませんよ。
瞑想はぢめる時は、お寺さんへたのもーして教えを請うのでつよ。
いいでつか? いいでつね?
それでですね、勝手にリンクを貼らせていただいた
日本テーラワーダ仏教協会さんのぺえぢを拝読した際。
慈悲の瞑想って、なァにィ?
てゆー好奇心から、
このぺえぢをぽちっとしてみたんですよ。
そしたら、そのぺえぢで紹介されてる瞑想のコトバとおんなぢことをかんがえながらねんねした覚えがあったので。
夢の研究家を自称する行かず後家の顔から、さぁーって血の気が引きました。
(データベースを確認してみましたら、「12月2日の就寝時にかんがえたこと」として記録してましたわ。)
どーして慈悲の瞑想とおんなぢコトバが、自然発生的におつむの中へ湧いて出たのかなんてこたぁ、アタイにゃわかりませんよ。
なんたってアータ、アタイは「あほう」でござんすから。
記事ひとつ投稿するにも、編集に一週間ぐらいかかっちゃってますしィ。
でも、氏原寛センセイの文章を再読しますと。
懐の広がりに呼応するカタチで、さらに無意識が活性化する可能性を指摘なさっておいででしょう?
禅定用のキーワードを与え、慈悲の瞑想まで行わせたMY無意識は。
意識的自我であるアタイの思惑とはカンケイなしに、悟りの追体験へ向けて準備をはぢめていたよおでございます。
もはや同行者無しで自己を追求するのは危険な段階に在る、と判断したので。
以前お世話になった分析家のセンセイに連絡して、アポイントを取りました。
成り行き次第では、どこかのお寺さんへお願いして、この身を預かっていただこうとも思っています。
「無色界の赤ちゃん」となった喜びで、はしゃいでた時とは裏腹に。
仕事とか結婚とかどおすりゃいいんだよ、ばかやろうっ。
てゆー現世的な惑乱も、あるにはあるのですが。
この先また、がくんて落ちても大丈夫なよおに、善後策を講じておかないと。
その道のプロが同席していない場で、長時間の仮死状態に陥っちゃったらタイヘンですもの。
←今度落ちたら、もお、この世へは戻れなくなってしまうかもしれない。
それでもアタイは行くよ、オノレの「内なる神」と心中する覚悟で。
アブラクサスに向かって飛ぶ鳥になるのでつ。
皆チャマ、とっくの昔にお気づきでしょうけれど。
アタイは、おつむから羽が生えてそおな、ちょうおめでたい夢想家です。
でも、霊性の開発・向上といった部分には、全くキョーミがありません。
方向性を誤れば、現実から遊離し、社会からも離脱してしまう危険性を孕んでますからネ。
望んでないニンゲンに悟りが訪れ。
無色界等至とおんなぢ心的作用まで現れるとは、皮肉なもんでございますが。
高次の全体性を志向する上で経験しなくてはならない、通過儀礼なのでしょう。
まァ、アレですよ、夢の内容についてかんがえたり。
現象をあるがままに眺め、自分のこころの動きを観察する行為は。
仏道的な修行をやってるのとおんなぢなんですよ。
誓教寺のご住職・藤本晃センセイの論考を拝読し、そお思いました。
てな感じで、この件に関する考察、これで終わり!
くだらねー私的考察に最後まで目を通して下さり、ありがとうございましたァ。
MATERIAL by YAMA☆SOZAIYA HONPO