皆チャマ、お元気でいらっしゃいますか?
早いもので、今年もあと数日を残すばかりとなっちゃいましたね。
あれは、ちょおど、昨年の今時分のことでした。
おかいものついでに、近所のツタヤさんへ行ってみる気になった桃花39歳(当時)。
お供を志願するコージとサトルを、愛車の後部座席へ乗せ、小高いお山のテップェンから、すいーっと下り。
冬の市街地を、もこもこ走行しておりましたらば。
運転席でハンドルを握っているアタイのこの耳が、不思議な声をキャッチしはぢめたのです。
「……ちんちんかいかい…………ちんちんかいかい……」
何処からか聞こえてきた、その微かな声は―――。
玉をころがすよおな、たいそう可愛らしい声色で。
「ちんちんかいかい……」
エンジン音の合間を縫い縫い。
リズミカルに、数秒おきに、おなぢコトバを反復し続け。
「……ちんちんかいかい……」
繰り返されるコトバは滑稽そのものだし、すぐ近くから聞こえるよおな気がするのに。
とおーいとおーい常世の国から、
「……おいでおいで。そこの子、こっちへおいで。こっちの水は、あまいよ……」
て囁きかけてくる何かの声みたいにも感じられるのです。
―――ほや? なんだらふ、是なる声明は。これが噂の幻聴ってヤツなのか?
と、不審に思いはぢめたアタイの脳裏に。
ある幻想小説の一場面がよみがえってまいりました。
================<以下引用>================
東京を発してヨーロッパへ向う国際線大型ジェット旅客機が離陸して三時間後。高度一万メートル。時速九百二十キロ。窓の外は眼下に灰色をしたくもまた雲の団塊のみ。それが陽を浴びてぎらぎら光っている。すでに機は安定して、うごいているのかいないのか、窓の外のけしきを見てもぜんぜん分からない。ときに、いささか退屈をもてあました友彦は手をのばして、乗客サービス用に座席に備えつけられたイヤホーンを耳にあてた。気に入りのロック・グループの音楽を聞くつもりだった。指でダイヤルをまわすと、とたんにビートのきいた荒々しい音の洪水が耳にとびこんでくる。その音の洪水にまじって、みごとにロックのリズムに乗りながら、だれの声とも知れず、玉をころがすような澄んだ声が一きわ明るくひびいてきたのには友彦もあっけにとられた。
諸行無常
是生滅法
あきらかに歌手の声ではない。とすれば、なにものがこれを歌ったのか。友彦はイヤホーンをはずして、思わずあたりに目をやった。
『うつろ舟』 著者 澁澤龍彦 発行 福武書店
1986年6月30日第四刷 P211~P212より引用
================<引用おわり>================
―――そうそう。諸行無常の声を耳にした少年は、この後。
機内のトイレへお篭りして、どぴゅ、って放出しちゃったんだっけ。
てゆー具合に、続きの情景を反芻しつつ。
思わずあたりに目をやった友彦少年よろしく、そーっと顔を左へ向けてみましたら。
後部座席におすわりしてるコージが可愛らしい作り声で、ちんちんかいかい、さえずっておりました。
桃花 「どおしちゃったのォ? なにゆえ、ちんちんかいかいなのォ?」
コージ 「……シロがニンゲンになったんだ!」
桃花 「へ?」
コージ 「ほら、しんのすけが飼ってる、シロだよ。
シロがニンゲンになって、しんのすけのフタゴの兄弟になるんだ」
桃花 「えーっ、シロとしんちゃんがフタゴの兄弟ィ?」
コージ 「うん。でね、しんのすけが、森で、迷子になって。
シロがしんのすけをお助けする時に、ちんちんかいかい、て言うの。
ちんちんかいかい、て言ったら、シロは、いぬにもどっちゃうんだよ」
桃花 「……それ、テレビで見たワケ?」
コージ 「そ! クレヨンしんちゃんの、す、ぺ、しゃある、でやってたの」
後日確認したところ、コージが見たとゆー、クレヨンしんちゃんのスペシャルは。
2007年に放送された、『ぼく野原シロのすけです』とゆータイトルのお話でして。
上記の会話中で、コージは。
魔法のチカラでシロがニンゲンになり、「ちんちんかいかい」とゆーパスワードを口にすると魔法が解かれて、犬の姿に戻っちゃう。
てゆーあらすじを、ざっくりと説明していたのでございますが。
幻聴ぢゃねえかと危ぶんでいた不思議な声の正体が、なんのこたあねえ、甥の声だと判り、いっぺんに緊張が緩んぢゃった桃花39歳(当時)。
尚もコージが作り声で、ころころとさえずりはぢめた途端。
ちんちん
かいかい
てゆー、幼児語の反復が醸し出すはぢゅかチいニュアンスが、可笑しくて堪らなくなってきちゃいまして。
ぴゃあぴゃあ笑い出した行かず後家のおつむから、脳内物質がじゅびびと分泌されたらしく、バカ笑いが止められない、止まらない。
ますます朗らかに、高らかにさえずりだしたコージを乗せたクルマは、冬の市街地を走り続け。
帰宅する頃には、サトルまでさえずりはぢめましたので。
後部座席からサラウンドで攻めてくる「ちんちんかいかい」の大洪水に包まれ、ひいひい笑い泣きしながら、お山のテップェンへと戻ったのでございます。
←六歳児が繰り出すお下品ギャグで何度でも笑えちゃうおめでたいヒト。
「性の超越性がもたらす笑い」で元気いっぱいの毎日だ!
澁澤龍彦センセイがお書きになった『うつろ舟』では。
女人や僧侶のカラダからちょろちょろと排泄されたおしっこ―――水のせせらぎが、妙なる声で、
諸行無常
是生滅法
生滅滅已
寂滅為楽
と唱え。
オルガスムスの恍惚とは似て非なる、夢幻の恍惚へと誘います。
その声は、作中に登場する天狗のおやじ殿いはく、「ふしぎなことに、仏家に目をつけられた者にしか聞こえぬ」のだそおで。
うつろ舟信仰にオイフィリー(多幸感)の陶酔が加味された、たいそう幻想的なお話でございます。
このお話が収録されているご本を買ったのは、22歳の時でして。
澁澤センセイが紡ぎ出された、異世界に触れ。
ふゥーん。夢幻の恍惚、てのがあるのれしゅね。
とは思ったものの。
人生経験に乏しい小娘のおつむでは、その恍惚がどんなものなのか、想像することすらできませんでした。
ところが、よんじゅっちゃいの今、『うつろ舟』を読み返してみますと。
幻想小説の中で語られている宗教的な恍惚や多幸感を、いつの間やら、自分自身の内的体験を通して解するよおになっちゃってることに気づかされ。
驚いたり慄いたりで、チョイとばかし、フクザツな心境になってしまいました。
特定の者にしか聞こえぬ水の声、とゆー設定を、河合隼雄風に言い換えるなら。
「そのように宿命づけられた者だけが通る道」を、とてとて歩いているうちに出会う、根源的な何かの声にあたっているのでしょうか。
こころの深淵から滾々と湧き出す根源的な水は、黄金の色をしています(おしっこの色に似てるっちゃあ似てるかも)。
水源に近づき過ぎちゃうと、圧倒的なパワーを有する水の奔流に呑まれ、ニーチェが体験した如き狂気に包まれたり。
『うつろ舟』に登場する仙吉の如く、水の声に魅了されきったまま異世界へ運び去られ、この世へ戻って来れなくなっちゃいますので。
程々の距離を保ったまま、そーっと水源に近づいて。
奔流の勢いを制御しつつ、水の恩恵―――この世を生き抜く上で欠かせない根源的なチカラを、安全なカタチで受け取る技術が必要とされるワケなのですけれど。
そーゆー技術は、とうの昔に、ヒトの意識から失われています。
失われた技術を体系化して現代まで継承し、組織的に教えていく、てのが、宗教のれぞんでーとるでありますゆえ。
宗教教団とゆーバックボーンを持たない個人が、前時代的な要素として無意識へ葬り去られた技術―――カミチャマ的な何かと交流する技術を、自力で探し当て。
一般的な生活様式をも維持してゆくのは、なかなかむぢゅかチいことです。
僧院や修道院へ入り、独自のコミュニティに守られながら聖なるものに近づく、とゆー手段を取らねいのですからね。
先日も、ユング派のセンセイから、
「宗教を持たない現代の日本人は、どーすれば水源に近づけると思いますか?」
てゆー、ご下問がありまして。
あほうの桃花よんじゅっちゃい、おもむろに口を開くなり、
「うーと、わかりまちぇん」
て、答えてしまいました。
もおちょっとアタマ使えやボケ!て感じですね、そうですね。
高度な論理の積み重ねによって、カミチャマ的な何かを追求するヒトもいれば。
瞑想とゆー手段や、アセンションとゆー手段を選ぶヒトもあり。
アタイのよおに、分析のプロから臨床的なアドバイスを頂戴しながら、顕在化された無意識の内容を吟味するヒトもあり、で。
いろんなヒトが、いろんな手段でもって、失われた技術を探し求め、水源に近づこうといたします。
それらの手段が、意識的な選択であれ、無意識のうちになされた選択であれ。
「これまで盲目的に信じていた何か」に換わる「信じられる何か」を、一人ひとりが、実践を通して獲得しよおとしている、てことになるのでしょうけれど。
近頃の行かず後家は、バクゼンと、あることを、感じています。
水の恩恵や、カミチャマ的な何かって。
オトナの意識が軽んじがちな、幼児性や感情ともカンケイあるんぢゃないのかナ?
←それとも音速のあほうになればお水がもらえちゃうとか?
さてさて、先頃の休日に、またコージとサトルを従えて、ツタヤさんへ行った桃花よんじゅっちゃい。
フタゴといっしょに、アニメのDVDをあれこれ選んで、レンタルしてまいりまして。
その日の夕方、三人で、
『こいぬのうんち』のDVDを鑑賞いたしました。
『こいぬのうんち』は、韓国の第一回キリスト教児童文学賞を受賞し、音楽劇にもなっている韓国童話です。
こいぬのコウモンから排泄されたうんちが物思い、土や木の葉たちを相手に語らうとゆー、アニミズム的な世界観の中。
ちっぽけで泣き虫の、こいぬのうんちは、「ぼくはだれの役にもたてないのかなぁ」と自問して、涙を流し続けます。
ころころとした愛くるしい造形のこいぬのうんちが、お空を見上げてえぐえぐ泣く様がえらくかわゆい上に。
「アンタは蔑まれる存在ですよ」て言われちゃった弱者の哀しみやら、別離の淋しさやらが、ぎゅぎゅーんと胸に突き上げてきて。
こいぬのうんちが、愛おしくて愛おしくて堪らなくなってまいります。
ホントウは、誰もが、固有のれぞんでーとるを持って生まれ。
他の誰かの役にたっているのに………。
鑑賞途中で、ふいにサトルが。
「………なんか、泣きそうだね。なみだ出そうだね」
て言い出したのをきっかけに、三人して、びいびい泣いちゃったのでございますが。
人前で泣いちゃうのって、ある種のヒトにとっては。
泣いてるところを他人に見られるぐらいなら、死んだ方がマシぢゃーん!
て思えちゃうぐらい、気はぢゅかチく。
ありのままの自分を曝け出すことへの戸惑いや、恐怖すら感じちゃうものでしょう?
人前でしゃくりあげながら、涙を流すなんて、コドモがすること―――。
オトナがおんなぢことをすれば、「理性的ではない」「コドモぢゃあるまいし」てバカにされ、他人につけこむスキを与えてしまう―――。
そんなことを考え考え、おめめの縁からじわーっとにじんでくるお水をひっこめようと、抵抗してみたりするもんですが。
うんちやおしっことおんなぢで、出るもんは、出ちゃうんですよ。
ニンゲンが生まれもった、自然な反応なんですもん。
感情は、時に、怒れる水神の如く荒れ狂い、一切を押し流し。
暗い水底へ引きずり込むパワーを有した、恐ろしいものでありながら。
渇いたこころを穏やかに、程好く濡らして、洗い清め。
誰かと誰かの間にコミュニケーションの橋を渡し、場の流れを変える―――そんな、ありがたーい恵みも与えてくれるもの。
その恩恵は、自分とゆーものを押さえつけてるだけでは、受け取ることができないんぢゃないのかナ?
蛇口を閉めたり、緩めたりするみたいに。
泣きたい時に泣き、笑いたい時に笑うコドモな自分も、時々、出してあげないとネ。
それで恥をかいたなら、恥の中から、また何かを学べばいいのよさ!
←「人前で泣くなんて死に値する恥だ」と思っていた張本人。
経験者は語るとゆーヤツさ! あははははは。
ニンゲンとして野原家の一員になることを望んだ、犬のシロは。
森の中で迷子になっているしんのすけをお助けするか、ニンゲンであり続けるかで、葛藤した末に。
「ちんちんかいかい」を唱え、ヒトの姿を自ら捨てる、とゆー選択をいたします。
「ぼくはだれの役にもたてないんだ」と思い込んでいた、こいぬのうんちも、自分を必要としている存在に出会い。
あるコトバを口にして、光を発しながら消えてゆきます。
こいぬのうんちもシロも、自己犠牲とゆー、崇高なる高みへ上っちゃうワケなのですが。
卑近にして下等なものだと思い込んでいたものから、独自の美を見い出してハッとする瞬間は、往々にしてあるもんです。
「自分にはナイ」とばかり思っていたものが、自分の中にチャーンと備わっていたことに気づいて、びっくりしちゃう瞬間も……。
「誰かを助け、自分も救う何か」も、外界での関係性を通じて、自分の内側から見い出されるものなんでございましょうよ。
昔の日本人は、川の水音を音楽として捉え、水鏡に姿を映して身仕舞いを整えた、と聞き及んでいます。
除夜の鐘を耳にすると、なぢぇかしら、神妙な気分になり。
一年の出来事を振り返りはぢめる、なんてのも、日本人ならではの習慣ですよネ。
こころの声に耳を傾け、その余韻を味わい。
もう一人の自分がもっている、古くて新しい何かに慣れ親しむ。
この年末年始は、そーゆー素朴な過ごし方をしてみようかナ、と思っています。
クソ長い駄文に最後まで目を通してくださいまして、ありがとうございます。
皆チャマどうぞ、良い年をお迎えくだちゃい。
また来年、ここでお会いいたしましょう。
参考文献 : 『うつろ舟』 澁澤龍彦著 福武書店発行
『深層意識への道 グーテンベルクの森』 河合隼雄著 岩波書店発行
MATERIAL by PINKUMACHAN NO HENTEKO SOZAI
甥のサトルが、一歳のベビイだった頃。
椅子にお座りした拍子に、おちんちんを、おしりの下に敷いちゃったことがあります。
ウッ
て、いきんで固まっちゃったサトルのまあるい顔に、見る見る間に血の色がのぼり。
プチトマトと見まがうばかりになるや。
サトルのクチビルから、それまで発せられたことのない、何とも喩えがたい泣き声が漏れ出しました。
その体験は―――。
ちいちゃな突起物を引っ張ったり伸ばしたりしながら、ちょびっとずつアイデンティティを確立する作業をはぢめたばかりの、男の子にとって。
いろーんな意味をもった、衝撃的な体験だったのでしょう。
口をへの字に結び直したサトルは、サッとおしりを浮かせて、椅子に座り直し。
おめめからいっぱいお水を滲ませながら、しばし沈思黙考した後。
怒ったような顔つきで、離乳食を食べはぢめました。
サトルの挙動から事態を察した義兄のマスオさん(甥の父親)が、チョロリと説明してくれましたので。
なぢぇサトルがいきんで泣いたのか、ようやく理解したのでございますが。
ベビイのサトルがはぢめて体験したそれは、傍らで見ていたアタイ(当時35歳)にも、目からウロコな衝撃をもたらしました。
「男の子って、こんな体験をしちゃうんだ!」
「オトナの男の子も、お座りする時は下敷きにならないよお、気をつけてるのォ?」
「それってやっぱり、体験を経て学習されることなのォ?」
て、ひとしきりかんがえましたもの。
持って生まれたカラダのつくりが違いますから、想像してみる他ナイのですけれど。
身体上の特性によって行動を制限されたり、注意を払わねばならない瞬間が、男性にもあるらしいことに、はぢめて気付いちゃったワケですよ。
←マウンド上でケンケンしてる野球選手の姿はテレビで見たことある。
でもおしりの下敷きでアイタタな姿を目撃するのははぢめて。
ユングやプラトンは、ニンゲンの潜在的な両性具有性について考察しておりますし。
ねんねしてみる夢の中で、セックスチェンジが行われることもございますでしょう?
男性が女性に、女性が男性になり。
「身体的な性別とは異なる性を持った人格」として、夢の過程のあれこれを体験するのって、そう珍しいことではありません。
こころもカラダも両性具有になる夢。
セクスレス型のヒューマノイドに変身する夢を見ちゃったりするケースもあります。
そーゆー夢を見ますと。
「カラダの作りは違っていても、異なる性もチャーンと備わってるんだァ」
てことが、なんとなァくわかってまいりますし。
日々の生活の中で、「これだから男は!」「これだから女は!」的なモノを見聞したりいたしますと。
なーんかこう、ちゃみチい気分になってまいります。
こころの奥底ぢゃあ、誰もケンカなんか望んでないってのによゥ。
←おつむのネジが緩んできたのでちょっと休憩。
日々あほうが加速する一方の行かず後家。島村ジョーより速いかも。
一歳のサトルがはぢめて体験した、痛みや情動は。
どれだけアタイが頑張ってみても、そっくりおんなぢに体験することはできません。
何たって、ついちゃってるものが、別のカタチをしていますから。
でもベビイ達は、ちょっと違いますよね。
集団の中で、誰かひとりが泣き出したら。
その誰かの「かなしいキモチ」は、周りに居るベビイ達にもじわじわ伝わって。
いつの間にやら、その場に居る全員が、ぴいぴい泣きはぢめたりします。
意識と無意識が分化していないベビイのうちは、「根源に近いこころ」のまま、外界と向き合っていますので。
「私は私。あなたはあなた」
なんて具合に、自分と他者を区別していません。
大きくなっていくうちに、いつの間にやら忘れちゃうことなのですけれど。
ごくちいちゃなベビイのうちは、「他者」てゆー認識そのものがナイんですよね。
「みんな私」
てゆー、茫漠たる感覚で生きてますから。
誰かが感じたこころの痛みを、そっくり自分の痛みとして感じちゃいますし。
お花も、いきものも、ぬいぐるみも、床の上のスリッパも。
「みんな私。おんなぢ私」
な感覚で眺め、それらのものに接していきます。
日々すくすく成長するベビイ達は、やがて。
親との分離不安や人見知りを経験しながら、「知っている人」と「知らない人」を区別しはぢめ。
自分と他者を区別することも覚え。
2歳ぐらいになると、「自分が自分であること」を認知いたします。
鏡に写った反転像をまじまじと眺めながら。
げっ、これが俺? まぢ?
なんてことを、かんがえはぢめるよおになるワケですネ。
そおやって、ちょびっとずつ「コドモの自我」を確立した後は。
思春期を経て、「オトナの自我」を確立していくワケでございますが。
オトナになっちゃいますと、たいていのバヤイ。
「私は私。あなたはあなた」
の線引きを強固にすることで、状況から自分を守ろうといたしますでしょう?
「ヤヴァイことに巻き込まれたら大変だぢょ!」
「もっと線引きがハッキリされねえと動けねえ!」
てな具合に、どんどん用心深くなってまいりますし。
線引きが強固になってゆくうちに生じた、孤立無援感や閉塞感に悩まされちゃう人もでてきます。
「私」を区別し、「私」を守ってくれるハズの境界が。
他でもない「私」を苦しめ、身動きをとれなくしちゃっているのでちゅ。
オトナの「私」も、ベビイの「私」も、みんな、「おんなぢ私」なのに。
えーん、えーん、痛いよォォォ。
←油断すると「かそくそーち」がスイッチONされて「音速のあほう」になる。
良い子のみんなも疲れた時はムリしないで休憩するのでつよ。
境界の向こう側にあるものは、時として。
自分とは全く異質なもの―――たいそう恐ろしいものに感じられるバヤイもあるワケですけれど。
異質にして未知なるものは、えてして、抗しがたい魅力をもっていますよね。
キャー、怖いィィィ!
て言いながら。
顔を覆ったおてての指の隙間から、そーっと向こう側を覗いてみたり。
けっ、あんなもんたいしたことねえよ!
とか言いながら。
向こう側にある何かをいつも気にしちゃってる、そんな自分にイライラしたり。
そんな矛盾が紡ぎ出す葛藤のはざまで、ささやかなシアワセを見い出して泣いたり笑ったりするのが、我々ニンゲンのユニークなところ。
異なる性への畏怖や焦燥なんてのも、そーゆーパラドキシカルな性質のものなんでございましょうよ。
おちんちんがアイタタなことになっちゃってたサトルも、すっかり大きくなりまして。
こんなものや
こんなものを注いだグラス片手に、人生の浮沈を語り。
←俺、サトル。違いのワカル男と呼んでくれ。
何やら発心しちゃったとみえ、
「お坊さんになりたいっ」なんてことも申しております。
先頃も、菩提寺の住職に向かって。
弟子にしてくださいっ!
て言い出しちゃうんですから、またまた目からウロコでございますよ。
保育園児にたのもーされちゃった菩提寺の住職、にっこりお笑いになるや。
大学を卒業してからネ♪
てゆー、あざやかなご返答で弟子入りをスルーなさいましたが。
求道を志すサトル6歳。
境界の向こう側にある何かに、強い憧れを抱きはぢめているよおでございます。
KUMA ICON by YAMA☆SOZAIYA HONPO
PANDA CLIP ART by PINKUMACHAN NO HENTEKO SOZAI
長い間ブログ休眠しちゃって、ホント申し訳ございません!
夢見る行かず後家・桃花よんじゅっちゃい。
厚かましくも舞い戻ってまいりましたァ。
ブログをお休みさせていただいた、8ヶ月の間。
分析心理学(ユング派)で「個性化過程」と呼ばれている、内的な旅を、ずっと続けていたのですけれど。
その間、いろんなことがありました。
修験道のおじいちゃまが仰った通り、
ねんねしながら術を教わっている(夢の文脈に沿ってヨーガ的な反射運動をやっている)ことが確認されちゃったり。
12時間連続で変性意識を経験したり、果ては、個別性を喪失したり。
ヘタするとこの世からおさらばしちゃう可能性を常に持った、たいそう危険な旅をしていたのです。
個性化を経験するヒトは、夢の過程を通して神話の世界に触れ。
共時性や幻視といった不思議な出来事を、いっぱい経験いたします。
無意識とゆー名の異界と接触し、象徴的な「死と再生」を繰り返しながら、意識から閉め出されていた古代的な要素との融合を果たした後は。
それまでとは異なる自己イメージを得て、社会の中へ戻っていきます。
かくなるアタイも、そのひとりなワケでございますが。
個性化の方向性って、「そのヒトが生まれ持った個性」によって千差万別ですので、経験される内容はそれぞれ異なりますし。
当人にとっても、思いがけない「個性」だったりします。
「神秘的なものは大好きだけれど、宗教に近付くのは怖いよゥ」
てゆータイプだったハズなのに。
夢の過程を通して、神道・仙道・宿曜道・陰陽道・修験道・道教・仏教・チベット密教・ヒンドゥー教・グノーシス主義・ユダヤ教・カトリック・ギリシア正教・ゾロアスター教といった、様々な宗派の理論や呪術性をちょびっとずつ体験し。
いろんな神チャマや仏チャマ、精霊達に出会いました。
「毎晩おフトンの上でねんねしながら宗教的な行を積む」とゆー、タイヘン器用なマネをやらかしていたワケなのでありますが。
オールドエイジ系だけでなく、ニューエイジのアセンションとゆー働きにも、ちょこっと感応したりもいたしました。
受信機さながらに、集合的な領域からいろんなものを拾っちゃうんですネ。
サポートして下さっている、ユング派の某センセイいわく。
「巫女体質です!」
てことなので。
「にゃるほろ。神チャマ的な夢をやたら見まくるよおになったのも、巫女ちっくな人材だったからなのれしゅね」
て納得し。
修験道のおじいちゃまが仰られていた、不思議なお言葉の数々についても、なんとなァく合点がいったのですけれど。
生まれ持った「個性」とゆーヤツは、その方向に向かっておのずと志向するもので。
なるべくして或る姿になるものなんだ、てことを、経験的に学んだ気がいたします。
←巫女体質の威力が発揮されるのはねんねしてる間だけ。
起きてる間はバッチリあほうのまま。
そんなこんなで、しれっとあの世から舞い戻ってきた桃花よんじゅっちゃい。
現在は、アーノルド・ミンデル主催の
プロセス指向心理学に関心を寄せています。
もしかしたら、
こちらでおべんきょうをはぢめるかもしれません。
←あほうだけど宗教家や心理療法家に向いているらしい。
「おヨメさんになりたい」てゆーオトメな気持ちもチョッピリある。
これから何をしようとしているのか、どんなものになろうとしているのか。
そこんとこが、自分でも今イチよく判っていないので。
このブログでどんなネタを発信していこうとしているのかについても、さっぱり判っていなかったりします。
「それなら再開するなよ、ばかやろう」
てゆー、お叱りの声が聞こえてきそうだニャ。うひー。
←近頃は縁談が舞い込んできていたりもする。
絵に描いたよおなドトウの人生だ!
まァ、あれこれやっているうちに、物質界での方向性も定まってくることでしょうから。
私的なネタを、ぽつりぽつりと投稿させていただくつもりでおります。
とんだ浦島太郎ですが、皆チャマ、どうぞよろしくおつきあい下さいませ。
―――最後に。
通知ナシで長期間休眠している拙ブログをご覧になり、心配して下さった方々へ。
お詫びと御礼を申し上げます。
ごめんなちゃい、もうしませんっ。
多分。
桃花拝
MATERIAL by PINKUMACHAN NO HENTEKO SOZAI